ばななぼーと

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18歳で上京するまで、まともに「大学生」を見たことが無かった。

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記事の表題の通りですが、私は18歳まで「大学生」という存在を見たことがありませんでした。

 

もちろん、無意識のうちに、そういう人とすれ違ったり、高校を卒業した大学生の先輩が母校に顔を出しに来てあったり、ということはありましたが、そういう「日常」からかけ離れているパターンではなく、生活をしていて、「あ、大学生だ。」と見て、感じることが無かったのです。

 

その最大の原因は、やはり、田舎に暮らしていたということが大きくかかわっていました。

 

もちろん、私の住んでいた秋田県にもいくつか大学はありました。

しかし、そのいずれもが私の住んでいた県南地域からは程遠い秋田市内の大学や、由利本荘市の県立大、秋田空港近くの国際教養大学ばかりで、最寄りの大学でも60km以上離れていました。

 

もはや、「最寄り」という言葉が意味するところが分からなくなるぐらいの距離です。

 

こんなことを今さらなぜ思い出したかというと、阿部幸大さんという東大の博士課程の方が現代ビジネスで書いていた下記の記事を読んだことがきっかけでした。

 

gendai.ismedia.jp

 

まぁ、私が上に書いた主張はほぼ阿部さんのそれと同じなのですが、文化と教育への距離の遠さが大学への遠さへ比例しているという意味では、勉強する意味というのも同時に遠いものに感じていました。

 

こんな田んぼに囲まれた田舎で外国人に会うわけがないと思いながらとりあえず言われるがままに受けていた英語の授業や、「後三年の役」というマニアックな戦いくらいしか秋田県が登場しない日本史の授業も、もう少し違う意識で学ぶことが出来たのではないかと、どこか言い訳じみたことを考えてしまいます。

 

それくらいの田舎には住んでいました。

 

仕事で京都に赴任した時、その思いはさらに深まり、「あぁ、外国の人ってこんなに日本を訪れているんだ…」、「歴史上の人物って、本当に実在してこの辺に住んでたのか…」、「阪神タイガース阪神ってあたりまえだけど実在するんだな、というか、鉄道会社だったのか…」など、今まで全くリアリティが無かった知識(最後のはアレですが 笑)が、急に現実のものとして立ち現れてきて、なんだか不思議な感覚がしました。

 

まぁ、世の中に物申したいことがあるわけでもなく、自分の境遇を嘆きたいわけでもないのですが、都会に生まれ、都会で育った人が、何かの間違いで自分とは逆に田舎へと追いやられていったら何を思うのか気になるなと思いました。「日本」という言葉でくくられた区分の中でも、見えている世界が異なる人がたくさん住んでいるのだろうなぁと、そんなことを考えた雑文でした。